自分のことってどうしてこんなにもよく分からないんだろう。
「ねえ、ちょっと葉月聞いてる?」
「あ、ごめん」
友達の声で我に返る。…あれ?私、今何考えてたんだっけ?
「それでさー、谷のやつ、「その髪、パーマだろ」って、すっごいうるさいの!「天パーです」って言ったら「じゃあ水に濡らしてみたら分かる」とか言っちゃってさー。もう、うざいったら!」
一息にそういうと、ため息をひとつ、吐いた。
「もう!相槌ぐらい打ってよ!付き合い悪いんだから!」
「ごめん」
相槌を打つ隙なんてなかったと思うけど。
「話は変わるけどさー、先週来た転校生、すっごい可愛いよね〜。聞いた?D組でもうファンクラブ出来たんだって。あ〜あ、いいなあ〜、私もせめてあの半分くらい…」
「♪〜♪〜〜〜♪?〜?〜」
いつまでも続く彼女のお喋りを遮るかのように、メールの着信音がなった。
「ちょっとごめん」
まただ。さっきからこれで三度目のごめん。
ピッ。
受信ボックスを表示する。
「誰、誰〜?」
楽しそうな友達の声も、もう私には聞こえなかった。
「修」
発信者名を見つめたまま、身体が動かせなかった。
「ねえ、ちょっと、まさか彼氏!?」
画面を覗き込もうと、友達が近づいてきた瞬間、私の金縛りも解けた。
「ごめん、また明日!」
今日、四度目のごめんを言うと、私は走り出していた。
その子が何か言っているのが聞こえたけど、もう気にならなかった。
近くの公園に駆け込むと、木にもたれて、もう一度、受信ボックスを開いた。
ピッ、ピッ。
「お久しぶりです。元気でしたか?僕はまた帰ってきてしまいました。突然だけど、今日会えませんか?十七時にイチョウ並木で待ってます」
十七時。もうあまり時間がない。
私はまた走り出した。
修が帰ってきている。そう思うと自然と足が速まる。
何故、こんなにも会いたいのかも分からずに…。
急いだこともあって、イチョウ並木には約束の時間より少し早く着くことができた。
でも、修はもう来ていた。
私の姿を認めると、修はにっこり笑った。昔と同じ、優しい、ふわりとした笑い方で。
「わあ、早いですね。まだ時間じゃないですよ」
そう言って時計を見る。私は修のひとつひとつの動作を引き寄せられるように見つめてしまう。
「メールしたの遅かったから、きっと遅れてくるだろうなって思ってたのになあ」
やけにのんびりした―ある人種の々にとってはひどく苛立たしく聞こえるに違いない―口調も変わってない。自然と顔が綻む。
「だって急いできたから」
言ってから後悔した。こんなことわざわざ言うのは恩着せがましいに違いない。でもどっちみち息を乱してるから分かってしまっているだろう。
「すいません、急がせて」
「ううん」
「今朝の飛行機で帰って来たんです。こっちに居られるのは一週間くらいなんですけど」
一週間。
それが長いのか短いのか、私には分からない。
「そんなわけで再会記念にデートしませんか?」
修はにっこり微笑んだ。
「…??…いいけど。これがデート?」
「あははは、まさか。また日を改めてですよ。いくらなんでも慌ただし過ぎるでしょう」
「そうだね。じゃあ、また連絡して?」
修はこんなふうに、不意に突拍子もないことを言い出すときがある。本当に何を考えてるのか良く分からない。
その日はそれで別れた。
翌日、学校に行くと想像した通り、質問の嵐が待っていた。
「ねえ、白状しなさいよ〜。昨日のメール、彼氏なんでしょ?」
「違うよ」
本当に違う。私は修と付き合ったことはないし、これからも付き合うつもりもない。向こうもきっとそう思っている。だからこそ、あんなことを言うのだ。
「楽しそうだね…。何の話?」
そう言って近づいてきたのは、例の転校生だった。
「あっ、山野さん。あのねー葉月に彼氏発覚なの!」
「違うったら」
「へえ、私も聞きたいな。村井さんの彼の話…」
「でしょでしょ〜さあ、もう、こうなったらきりきり白状しなさいい〜」
「だから違うの!はい、この話はもう終わり!」
文句を言うクラスメートたちを無視し、次の授業の準備をしながら、私は全く別のことを考えていた。
(ううん、きっと見間違いよね。光の加減か何かよ。山野さんの目が金色に光ったなんて…)
その夜、また修からメールが来た。
『今晩は。まだ起きてますよね?もう寝てたらすいません』
まだ十時にもならないのに、昔から変に律儀な人だ。
『再会記念デートのことなんですけど、次の日曜日はどうでしょう?もしよければ、また時間とか決めましょう。それではお休みなさい』
私はすぐに返事を返した。
『日曜日で大丈夫です。時間は十時頃でどうですか?待ち合わせ場所はまたイチョウ並木でいいと思います』
修からもすぐに返事が返ってきた。
『僕もその時間と場所でいいと思います。それじゃあ日曜に』
折りたたみ式の携帯を閉じながら、ふと、修がこのメールを打っているところを想像する。」
あの大きな手で携帯を持って、長くて綺麗な指で文字を打っていくところを。
修の手は、彼自身に不釣合いなほど大きい。同年代の男の子たち、いや、女の子たちと比べても、白すぎる細い首筋や、薄い胸板、狭い肩幅、小さな背中、どれをとっても、まだ少年のそれで、おまけに、いつもにこにこと笑っていることを差し引いても、かなりの童顔。
けれど、手だけは別だった。
修の手は、とても大きくて、長い指は綺麗だけど、全体としては筋張っている。
男の子のつもりで、何気なく話していて、ふと手に目をやると、どきりとする。
まるで手だけが、男の人みたいで。
そんなときは修自身も少しだけ違って見える。
手の大きい人って、将来、背が高くなるんだっけ。それとも足の大きい人だったかな。
そんなとりとめもないことを考えて、その日は宿題をするどころではなかった。
翌日、掃除の時間に転校生と二人きりになった。今日から新しい班で、北校舎三階のトイレ掃除なのだけれど、私たち二人の他は誰も来ていなかった。
「初日からこんなに来ないなんて」
「いいじゃない。ここのトイレ狭いから私たちだけでも十分だよ」
うんざりしている私に対して、転校生は随分寛大な態度だ。
「それに…あなたと二人だけで話したいこともあったし」
「話したいこと…?」
「そう…」
転校生は微笑んだ。それはとても優しげで―きっとこの笑顔を向けられた人は皆、彼女に好意を持たずにはいられないであろう―綺麗な笑みだったけど、私には何故だか不穏なものに感じられた。
「なに?山野さんが私に話したいことって」
「美夕でいいよ」
「あ…、じゃ、美夕が私に話したいことって…?」
「この前のメールの相手…」
「やだ、美夕まで。あれは本当に違うんだってば」
「いつからの知り合いなの?」
噂話の続きだと思って答えたのに、美夕の声はとても真剣だった。
「え…?どうしてそんなこと聞くの?」
「はじめて会ったときのこと、覚えてる?」
「…何の話?」
「本当に最初に会ったときのこと覚えてるのかな?彼の苗字を知ってる?どこに住んでるか知ってる?」
「…え?…あ、今、住んでるのは外国で、ちょっと帰ってきてて…」
私は何故か、まるで言い訳でもするかのように、しどろもどろになりながら答えていた。
「外国ってどこ?何故帰ってきているか知ってる?」
「え、…?ええと…」
思い出せない。なんで…?
「最初に会ったときのことは?苗字は?」
どうして?苗字くらい聞いたはずなのに…?はじめて修に会ったとき…忘れるわけないのに…思い出せない。なんで?どうして?
「それは思い出せないんじゃなくて、知らないのよ。はじめから」
静かな美夕の声が混乱した頭に遠く聞こえる。
(…知らない?どういうこと?)
「あなたは彼が大切?」
「…うん」
「好きなの?」
「分からない…でも、友香達の言う好きとは違う気がする。…ただ大切なの。それだけなの…」
美夕は何も言わなかった。ただその眼が哀しげな金色に染まっていたことだけは、よく覚えている。
「…ん、さん?葉月さん?」
「…?あっ!ごめん。なに?」
「いえ、特に。どうしたんですか?ぼーっとして」
「ううん、なんでもないの。ごめん」
そうだ。もう今日は約束の日曜日。王道にのっとって、小さな喫茶店に来てたんだっけ。
あれから美夕の言葉がずっと引っかかっている。
「…ねえ。修って今どこに住んでるんだっけ?」
「…え?」
「あ、ごめん。ちょっと忘れちゃって。ほんと記憶力ないよね。こんなだから学校の成績も悪いのかな」
なるべく軽い感じになるように明るい声を出したけど、見上げた修の顔は―今まで見たこともないくらい―無表情だった。
「…どうして急にそんなことを?」
「…な、なんとなくよ、なんとなく。やっぱりいい!忘れて!」
「会ったんですね…」
冷たい声。こんな声知らない。こんな修は知らない。
「そうよ」
誰と、と私が聞き返す前に静かな声が響いた。瞬間、辺りが暗闇に包まれる。
「はじめまして。…監視者」
「な…に?」
目の前には、ただ、真っ暗な闇。その闇に浮かび上がるように―美夕が立っていた。真っ白な着物を着て―。
修は微笑んでいた。その笑みはとても穏やかで、それでいて冷たかった。
何が起こっているのかわからなかった。いや、本当は心の奥底で気づいていたのかも知れない。でも気づきたくなかった。
「いい加減くだらないお遊びはやめて、大人しく闇に還りなさい」
闇に還る…?何を言ってるの?
「う〜ん、残念ながらご期待には添えません。と、いうわけで…」
メキッ…メキィッ
修の手が奇妙な形に変わる。
大好きだった修の手…。
「切れ味悪そうね、それ」
「どうでしょうか?試してみてはいかがです?」
修がとても人間とは思えない動きで一足飛びに美夕のもとに斬りかかる。切っ先が美夕の肩に触れる刹那。闇の中から白い手が伸び、その赤い爪が切っ先を受け止めた。白い仮面の人物が美夕と修の間に立ち塞がる。彼を包む黒装束が暗闇と同化していて、今まで気がつかなかったのだ。
「ラヴァ、いいの」
ラヴァと呼ばれた人物が後方へさがると、美夕の手から真っ赤な炎が現れた。
「覚悟はいいかな…?」
「あ〜あ、監視者に敵うとは思ってなかったけど、その下僕にすら届かないなんて。悔しいなあ」
修は諦めたように両手を下ろした。けれど口調だけはいつもと同じ―のんびりしたままで―それが余計に場の空気を不自然なものにしていた。私はただ、ぼんやりとその光景を見ていた。
「ひとつだけ聞かせてもらってもいいかな…。どうして私が見張ってるって知ってて、姿を現したの?」
見張る?誰が?だれを?
「…企業秘密です」
「そう…」
二人の声は不思議なほど静かだった。
「神魔を闇へ―」
美夕の炎が彼女の手を離れて、修の身体に触れる―。
そのとき、何故自分がそんなことをしたのか、そんなことが出来たのか―それはわからない。ただ―。
私は走り出していた。ほんの数日前、修からメールをもらったときみたいに。
修の身体が炎に包まれる瞬間、私は修に抱きついていた。
誰かが息を呑むのが聞こえた。けれど、それが美夕のものなのか、修のものなのか、それともあの黒衣の人物のものなのかは、わからない。ひょっとしたら私だったのかもしれない。何故だか熱いとは思わなかった。それは美夕の炎だからなのか。それとも、もう私は熱さを感じる感覚さえ無くしてしまったのか。
炎の向こうで美夕が辛そうな顔をしているのが見えた。
そんな顔しなくてもいいよ…?これはきっとあなたのせいじゃない。そう、本当はとっくに気づいてた。どうして修の苗字や彼との出会いが思い出せないのか―それは最初から知らないから。色々なこと、思い出は、どこまでが本当にあったことで、どこからが創られた記憶なのか―あるいは逆なのか。それとも全てが嘘で、今まで会ったことも無かったのか。…でもそんなことどうでもいい。確かに幸せだった。嬉しかった。これは恋愛感情なんかじゃない。でも大切だった。ただ、それだけだった…。
「行こう…。ラヴァ」
苦しげに炎を見つめていた美夕が白い着物を翻してその場を立ち去った。仮面の従者もそれに続く…。
自分から進んで神魔と運命をともにした少女。流されやすく、どこかとらえどころのない、はっきり言えば、何かに対する意欲とか積極性、そういったものに欠けていた。その彼女が、まさかあんな行動をとるとは思わなかった。もっと慎重に行動するべきだったのかもしれない。けれど。
「美夕、貴方は監視者としての使命を全うしただけです」
「…ええ。そうね、その通りだわ」
監視者。そう、私は監視者。だからこそラヴァと一緒に居られる。でも、もし私が人間だったら…?くだらない。私は監視者だったからこそ、ラヴァと出会ったのに。こんな想像自体、ばかげてる。
けれど。
「大切なの…。好きとか、そんなのわからない。…ただ、大切な人なの…」
最後の瞬間の穏やかな顔が甦る。
ねえ、葉月…。もし私があなただったら…。
顔を上げ、いつものように微笑む。
「行こう、ラヴァ…。はぐれ神魔が待ってる…」
美夕の踵が地面を離れ、白と黒の衣が宙を舞った。
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